2.苳子の決意

裄成(ゆきしげ)、叔母と甥って結婚できないって知ってた?」
 いつだったか――高校生のころだというのは間違いないのだが――、唐突に苳子が言いだしたことがあった。
 中学まではずっと一緒の学校だったけれど、苳子が眞と一緒に女子校に入ってからは、会う機会も滅多になくなっていた。
 けれど、突然苳子が校門の前に立っていたことがあった。僕は驚きもあり、距離を置いてしばらくの間彼女を見ていた。
 苳子はがちがちに固まり、じっと空中の一点を見つめていた。彼女の紺のワンピース風のセーラー服は、黒いブレザーの中では目立つ。苳子はずっと右手で自分自身を守るように左の二の腕のあたりを掴んでいた。声をかけられたりしても、頑なに遠くを見つめている。はっきりした目鼻立ちに、意思の強い眉。華やかな雰囲気を醸し出す苳子は、昔から派手に見られがちだ。けれど実際の彼女は、うさぎだった。見知った人の間でならともかく、見知らぬ人々の間では、必要以上に萎縮してしまう。
 ふと、顔を上げた苳子と目があった。僕を見つけるなり、彼女の頬の筋肉は緩み、花が咲きほころぶように表情が明るくなった。すぐに小さく手を振り駆け寄ってくる。僕の隣に来ると、来ちゃった、と目尻を下げた。
 知り合いに会って、冷やかされでもしたらたまらない。僕はすぐに、苳子を近くの喫茶店へと促した。
 埃の匂いの籠る店内は、がらがらに空いていた。近くに新しく小ぎれいな喫茶店もあるので、だれも好き好んでこんな所には来ない――そういう店だった。けれど、煙草の煙を極端に嫌う苳子相手には、これくらい客の少ない店の方が好都合だ。
 向かい合わせに座ると、苳子はまた固まってしまった。当たり障りのない会話を続けながらも、何か切り出そうと必死で会話の糸口を捜しているように。
 彼女はストローでオレンジジュースを一口飲み干すと、ようやく決意したように問題の一言を切り出した。腰まであるヘーゼルの髪を、くるくると指に巻きつけながら。
 苳子の髪は僕が知る限り、ずっと長かった。肩より短くなったことは、一度もない。真っ黒で常に短く刈られている、眞の髪とは正反対に。
 いつだったか、眞は言っていた。苳子の長い髪はね、一人の男を愛し続けている誇りなんだよ。もしも切ることがあったとしたら、それはよっぽどのこと。だから、そういうときは邪魔しちゃだめだよ。裄の一言が全部変えちゃうことだってあるんだから。
 僕は苳子ではなく、眞に影響できる男になりたかった。
 話している間、眞は一度も僕の目を見なかった。
 目の前の苳子には悪いけれど、僕は眞のことを思い出し曖昧な返事をする。
「知ってるよ、それ位。3親等内は結婚できない、だろ。小学生か中学生のとき、社会か何かで習ったから」
 それは僕が、無意識のうちに考えないようにしていたことだった。
「ようするに、好きでいても仕方ないんだよ。どうしようもないんだよ」
 畳みかけるように放たれた苳子の言葉が、僕を打ちのめす。
 どんなに思っても、報われない。たとえ報われたとしても、周囲からは祝福されない、認められない……。そんなことはずっと自分でも分かっていた。
 語気が荒くなる。
「何が言いたい?」
「お願い。……眞のことは忘れて、私を好きになって」
 言葉を絞り出すように、彼女はそう言った。全身を細かく震わせ、顔を赤く染めて俯いたままの苳子は、いつもよりずっと可愛く見えた。美人ではなく、「可愛い」と。
 ずっと友達としか思えなかった苳子が、はじめて「女」に見えた。
 断る理由は、なかった。

 あれから大分経った今、僕はその日と同じように喫茶店で現在の苳子と向き合っていた。
 あの時とは違い、大通りに面した大きな店だけれど。昼時ということもあり、ほぼ満席という賑わいようだ。
「突然呼び出すなんて、らしくないじゃない」
 苳子は首を傾げて僕を見つめる。こんな時、いつも揺れた筈の長い髪は無くなっていた。眞ほどではないものの、髪の短くなった苳子は、別人のようで僕は何だか落ち着かなかった。いつかとは逆で、僕のほうがそわそわしてしまう。引きつった笑みが、顔面に張りつく。
 一昨日会った時は、まだ髪は長かった。
「まあ、いいけど。仕事の方、大丈夫なの? あんまり長く出てると、眞に怪しまれるんじゃない?」
 僕と眞が同じ職場だと知っての、苳子の言葉だった。けれど僕は違和感を拭い切れない。僕とつき合っていた頃の彼女は、二人でいる時に眞の名前を出すことをひどく嫌がった。
「あ、ああ……大丈夫だよ。営業の帰りだから。ちょっと位遅れても」
 それだけ言うのがやっとだった。
 周囲を見渡すと、煙草の煙が蔓延している。
「煙草――」
「?」
「煙草の煙、苦手だろ? 喫煙席で大丈夫だったのか?」
「今つき合ってるひとが、ヘビースモーカーなの。さすがに慣れたわ」
 当然のことながら、僕のことではなかった。照れるように髪を撫でつけた左手の薬指には、ダイアモンドが光っている。
「結婚するって……本当だったんだな」
「失礼ね、狂言だとでも思ってた?」
「そうじゃなくて、……どうして僕には言ってくれなかったんだ?」
 苳子は今日初めて俯いた。いつもの彼女だ、と落ち着いたのも束の間、すぐに顔を上げる。
「本当は二日前呼び出したのは、ソレ報告するつもりだったんだけど、なかなかふんぎりつかなくて。だから髪を切ったの。私がずっと裄成を思ってきた証の――」
 僕は何も言えなかった。
 苳子は足を組み替え、話を続ける。
 裄成、こんなこと言ったら、私のこと馬鹿だと思うかもしれないけどね。私はずっと眞になりたかったの。眞になって、あなたに愛されたいって。
 でも、気づいちゃったのよ。私が例え眞になれてそれで成功したとしても、それは眞の成功だわ。私の成功じゃない。
 だからずっと、髪は短くするもんか、って思ってたんだ。眞の真似だけはするもんか、って。だって眞みたいになって、それで裄成に好かれたって、全く意味がないんだもの。私はありのままの私を裄成に好きになって欲しかった。だけどね、あなたは眞じゃなくちゃ駄目でしょう?
 ……私が私のままでいられないなら、裄成はいらない。
 これから私の旦那様になる人ね、私が一番私でいられる人なの。
 髪を切っても私は私。もう意固地になる必要は、なくなったから。
「今、幸せなんだな」
 やっとのことで言えた言葉は、気の利かない、ありふれたものでしかなかった。喉が張りついて、変な声になる。
 苳子は、はにかんだ笑みを浮かべた。僕が見てきた中で、一番きれいな笑顔だった。

「あーあ、裄成が七ちゃんとくっつけばいいのに」
 姿勢を崩して、苳子は伸びをしながら言った。
「何だよ、ソレ」
「んー、そのままの意味。私、七ちゃんとはマブダチだもの。あの子には幸せになって欲しいから」
 確かに、苳子は七日と仲が良い。年は17も離れているにも拘らず、本当に親友といってもいいほどの親密さだった。
 けれど。
 僕は釈然としないものを感じ、思わず尋ねる。
「眞とは? 友達じゃないのか?」
 一瞬、苳子から、笑顔が消えた。
 すぐに取り繕うように、彼女は口の端だけ吊り上げる。目は笑っていない。
「私、昔から眞のこと大嫌いだった。今も嫌いだよ。だから裄成には別のコ、好きになって欲しい」
「だからって、七日はないだろ? まだあいつは6才だぞ」
 冗談で誤魔化すことしかできなかった。
 苳子は身を乗り出して頬杖を付き、今度は柔らかく微笑む。
「あら、もうすぐ7つでしょ。5月7日生まれだから七日、可愛い名前よね」
 更に眞が離婚する前の少しの間――
五月(さつき)光陽(こうよう)と眞が夫婦だった間は、五月七日という名前だった。今は眞共々、僕の母方の姓にあたる久森(ひさもり)を名乗っている。
 自分から思い出したことだけれど、五月光陽の名前は僕の気を滅入らせる。
「それにこの場合、年は全く関係ないわ。あんまり七ちゃんを侮っちゃ駄目だと思うけど。あのコ、裄成が思ってるよりずうっと“女”よ?」
 苳子の声に、意識が引き戻される。
「それってどういう――」
 言葉は、苳子の口唇で塞がれた。口内にほのかな煙草の味が広がる。
 苳子自身は煙草を吸わない。「結婚する」と言葉で聞いた時よりずっと、そういうことなんだな、と実感できた。
「あ、いけない、もうこんな時間。悪いけど、先、帰るわ」
 財布から千円札を取り出し机に置くと、苳子は慌ただしく店を出ていった。ドアを出ると同時に、ベルが鳴り響く。
 彼女はその間一度も振り返らなかった。
 僕は苦い煙草の味を消し去るように、冷めたコーヒーを一気に飲み干す。けれど、舌にはりついた脂の味は消えなかった。

 

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